教員のブログでこれを扱うのは多分タブーなんでしょうけどね、好きなことを書くためのブログですから書きますー。
事の発端はこの記事でした
Facebookの投稿から一変
- 3階の窓から飛び降りろと言われた
- 暴力を振るわれた(今回はこれは扱いません。真実だとしたら論外です)
- 学校側が謝罪
と揃うと、なんて教員だ、と思うわけですけれども、後にFacebookの投稿がシェアされて、「何だよ、メディアの報道の仕方が偏向かよ」みたいな世論に変わっていったところは、はてなにいる皆さんならもうご存じだと思います。
実はですね、その学校に数年前まで一緒に働いていた先生が異動しておりまして、まさか彼がやったのかと心配していたんですけれども、どうやらその人がやった訳では無さそうなので安心しておりました。
そして、出張などで意見交換をしてきた内容を、隣の先生が教えてくれたのですが、やはりあのFacebookの投稿の内容が実態に近いようです。(伝聞形ですので、確定ではありません)
…が、
私はやはりこの指導には異を唱えます。
信頼関係を作るのが先決
これが、大前提だと思っているんですよ。
どういうことかと言えば、指導が通るかどうかというのは、
「この先生は僕の話をちゃんと聞いてくれた上で、正当な判断を下してくれるから、怒られたときは僕の悪いところをちゃんと指摘してくれているんだ。」
って子どもが思っているかどうかなんです。
私は指導が通ることを、指導内容がおちる と表現していますが、どんなにやんちゃな子でも、信頼関係が出来ると言うことを聞くようになります。こいつの話は聞くに値すると思わせるのが、プロとしての仕事なんです。
そして、その信頼関係が出来ていないうちに、キツい口調や態度で指導をするとどうなるかと言えば、当然反発されます。
ブログが炎上するのは、読者とブログ主に信頼関係が無いからです。だから強い論調に対して反発する。ネット上で信頼関係を築くというのは至難の業ですよ。崩れるときは一瞬ですし。
なので、信頼関係。これ、先決。
反発の結果は保護者に伝わる
学校で理不尽な怒られ方をした(と本人は思っている)と、保護者へとそのことを伝えることで発散しようとします。その時は感情が高ぶっていますから、真実を重視するのでは無く、自分のイライラを発散することを重視して話す訳です。
そうなると、「なんてことを言いやがるんだ。」って保護者も思います。
なので、たいていの先生は、大きく指導した際には先回りして保護者に連絡を入れます。「こういった理由で、このように指導をした、指導した結果、本人は納得がいく部分といかなかった部分があるようなので、話を聞いていただきたい」といった感じです。
この連絡を入れるか入れないかで保護者のその後の動きも違います。
と言うわけで、まとめます。
- 信頼関係が出来ていないうちに強い指導をすると反発される
- 保護者とも信頼関係が出来ていないと指導に対して不信感を持つ
- こまめに連絡を入れることで不信感は少し軽減される
なので、どんなに筋が通った指導でも、本人と保護者に正しく反映されていない指導であれば、それは指導として失敗なんですよ。ここが、多くの教員が勘違いしているところなのではないでしょうか。
たまに「俺の言うことは間違っていない、理解しないアイツらが悪い」と言う教員もいます。私から言わせていただくならば「そういった人に対しても指導できないくらいの指導力なのね」と両断して終わりです。
今回のケースも同じです。Facebookの投稿から、矛先が指導を受けた本人や、その保護者に対して「お前らも悪いだろ」という形で向いていますが、何度でも言いますよ。
そういった子どもや保護者とも、一定の信頼関係を築いて指導できない教員が悪いんです。ここははっきりと言っておきます。
ボクたちはそれで給料もらってるんですよ。そこがボクたちをプロたらしめるところなんです。
なので、今回のような指導をしたかったら、もっと信頼関係が出来た2学期や3学期にするべきだったんです。見逃すとなめられますから、スタンダードな指導は入れつつも…なのがバランス感覚大変ですが。
学年で一番のやんちゃ君を自分はどうしたか
さて、私が学年で一番だと評されるやんちゃ君を担任したとき、どうしたか。
一学期は気持ち悪いくらいに、君のこと好きだよー、見てるよー、を伝えました。
もちろん悪いことをしたら指導しました。でも、その後にフォローを必ず入れる。もしくは指導した理由として、「君には○○という力があるし、○○も出来ている。なのに、どうしてこういうことをして、自分の価値を落としてしまうのか。先生は君の良いところをいっぱい知っているのに、そういうところでマイナスな印象を与えていいの?」と指導の度に言ってきました。指導するのは君のよいところをもっと見てもらえるようにするためだ、と伝え続けるわけです。
クラス全体にも、「○○くんはこういういいところがあるのはみんなも知ってると思うけれども、残念な点(残念ながら彼はもうやんちゃボーイとして学校中に知れ渡っていたので、そこをぼかす訳にはいかず…)があるのも事実。そこで、みんなには○○ということを理解していて欲しい。(指導の方針を伝える)」ということは最低限シェアしておきました。そうじゃ無いと、彼だけ指導が軽いと勘違いされて逆に恨まれてしまいます。先生がこういう理由で、こう指導している、というところは共通理解を図っておきました。
保護者ともマメに連絡を取り合いました。最初電話したときは「また しでかしましたか…?」みたいな反応だったのが、良い点も伝え続けることで、「今日はこういうことがありましてね、まぁ、これはちょっとダメだったんですけど、こっちは良かったですよ」と気さくに話せるようになりました。
そんなことを続けた結果、一学期には友だちのことを殴って青あざ作らせていた彼が、三学期の終わりには友だちのことを助け、得意な算数では友だちに教え、誰よりも予習をしてくる子になっていましたよ。
まぁ、これは私の指導うんぬんではなくて、彼の努力によるものが大きいので、私の成果では無いと思いますがね。ホントがんばってたからなー。
と言うわけで、少ない経験からのまとめ
子どもを好きになる。そしてその好きという思いを伝えることで、信頼関係って出来てくるんじゃないでしょうかね。
私は仮面を被るのが下手なので、嫌いなんだけれども好きと伝えることは苦手です。なので、とことんその子のことを知って、クラスの全員を好きになるようにしています。
好きな子への指導だからこそ、その子の立場に立って考えられます。
好きな子への指導だからこそ、どう言ったらいいか、悩みます。
好きな子への指導だからこそ、未来を見て話せます。
今、子どもが好きだ!と大声で言えない時代に突入してますけれども、そういった意味じゃ無くて、本気でこの子たちの未来を考えるのなら、この子たちを大好きになることを躊躇してはならないんじゃないかなと思いますよ。
さて、こんな記事を書いていると、今担任している子たちの顔が浮かんでくるわけです。みんな元気にしてるかなー。残暑見舞いでも書こうー。