
ABEMA Primeに出演して考えたこと
2026年7月17日、ABEMA Primeに出演しました。
テーマは、教育現場における生成AIの活用について。
テレビ番組に出演すること自体がほぼ初めてだったこともあり、放送前も放送後も、いろいろなことを考えました。
今回は、出演依頼を受けてから本番を迎えるまでに何を考え、どのような準備をしたのか。そして、実際の番組内でどのような議論があり、放送を終えた今、改めて何を伝えたいのかを書いておこうと思います。
もしも見ていらっしゃらない方は、YouTubeにありますのでご覧ください。
依頼を受けたときのこと
実は、最初に出演する予定だったのは私ではありませんでした。
別の先生に出演依頼があり、その先生のご都合がつかなかった場合の、いわば控え選手でした。
そのため、最初は、
「まぁ、本当に話が来たら頑張るか」
くらいの気持ちでいたんです。
ところが、まさかの控え選手出場。
正式に出演が決まった瞬間から、
「これはヤベぇな」
という気持ちと、お世話になってきた諸先輩方や、必死の思いでカリキュラムについて議論している中教審の委員の先生方に、少しでも恩返しをしたいという気持ちが、頭の中を巡り続けました。
テレビの議論は尺が短く、立場を単純化されやすいものです。
以前、別のテーマで出演された先生が、番組が想定していた文脈とはズレた形で議論が荒れてしまい、苦しそうな表情をされているのを画面越しに見たことがありました。
どうすれば、同じような状況にならずに済むのか。
限られた時間の中で、何を、どのように伝えればよいのか。
それでも出演を受けることにしたのは、この議論が「AIに賛成か、反対か」という二択で語られがちな中で、現場から見た「条件付き」という第三の立場を、誰かが言わなければいけないと思ったからです。
安易な二項対立ではなく、AIが存在することを前提として、教育の中でどのように扱っていくのかを議論すべきだと考えました。
分析フェーズ
出演が決まってから、まずやったのは、自分の主張を整理することでした。
AIを使いながら、これまで自分が書きためてきたブログやメモを読み返し、論点を洗い出しました。
特に、以前EdTechZineさんで連載させていただいた記事の下書きをGoogle Driveから読み取り、自分がこれまで何を考えてきたのかを整理しました。
EdTechZineは残念ながらサービスを終了してしまいましたが、当時書いた原稿や下書きは、自分の考えを振り返るうえで非常に役立ちました。
Google Driveとの連携については、ChatGPTもClaudeも対応しているため、どちらでも「ドライブの私の○○を~」と入れるだけで読み込んでくれます。なので今私が考えたことはだいたいDriveに入れるようにしています。
さて、その後、中教審の資料、特に総則に関する議論と、情報・技術ワーキンググループの資料を読み解いていきました。(既に読んでいるので復習程度)
もちろん、前提となる文部科学省の生成AIガイドラインも改めて読み込みました。
整理していく中で、自分の考えは、次の4段階で説明できることが見えてきました。
-
子どもたちは、すでにAIに触れている
-
学校が禁止しても、AIに触れない子ども時代には戻れない
-
必要なのは「使わせるかどうか」ではなく、「どう使わせるか」の設計である
-
目的はAIを使える子どもを育てることではなく、自分で考え、確かめ、決められる子どもを育てることである
少なくとも、これらの考え方は、文部科学省が示している方向性と大きくはズレていないように思えました。
「よし。まずは、これでいってみよう」
そうして、番組に臨むための軸ができました。
骨子作成
この整理をもとに、過去に自分が書いた資料や考えをベースに、本番用の骨子を作りました。
付け焼き刃で用意した主張ではなく、これまで積み上げてきた考えの延長線上にあるものだと、自分自身でも確認する作業でした。
特に意識したのは、番組側から慎重な立場として招かれていた栗原教授の存在です。
事前資料として共有されていた記事は、AIにも読み込ませましたが、それだけではなく、私自身も時間をかけてじっくり読みました。
そこで、気がついたことがあります。
「あ、これは根っこは同じだ」
ということです。
AIを安易に使わせてはいけない。
基礎学力や思考力を守らなければならない。
人間が考えるべきことまで、AIに丸投げしてはいけない。
この課題意識自体は、私も同じです。
要は、実装の問題でした。
学校がAIから距離を置くことで子どもを守るのか。
それとも、学校が管理できる環境をつくり、安全な使い方を教えることで子どもを守るのか。
大きな違いがあるとすれば、その部分でした。
「考える力が落ちる」という議論
生成AIの利用によって考える力が落ちる、いわゆる認知オフローディングの問題は、当然考えなければいけません。
分からないことがあったとき、すぐにAIへ答えを求める。
文章を書く前に、AIに完成品を作らせる。
考えがまとまる前に、AIに要約させる。
このような使い方を繰り返せば、本来人間が経験すべき試行錯誤の機会が減る可能性はあります。
一方で、研究で使われた課題そのものについて、
「AIに聞けば答えが分かるような課題だったのではないか」
という反論もあります。
言い換えれば、その課題は「AIを使って考える課題」ではなく、「本来は人が自力で処理する課題を、AIに代行させた課題」だったとも考えられます。
生成AIを使えば、どのような課題でも思考が深まるわけではありません。
むしろ、AIに渡してはいけない課題や、AIを使わず自力で取り組むべき場面も当然あります。
重要なのは、AIを使ったかどうかだけではなく、どのような課題で、どのように使ったのかという設計です。
0から1を生み出せない子どもたち
もう一つ、
「0から1を生み出すのは人間が行うべきであり、AIに代行させるべきではない」
という考えについては、少し違う視点から話ができると思いました。
確かに、何もないところから何かを生み出す力は、とても大切です。
しかし、学校には、その「0から1」がどうしても難しく、苦しい思いをしている子どもたちがいます。
例えば、何かのアイデアを考える授業で、手が止まってしまう子どもがいます。
先生は、その子に一生懸命声をかけます。
「こんなふうにしてみたら?」
「あんな方法もあるよ」
「じゃあ、これはどう?」
それでも、子どもはしっくりこない。
先生も、ずっとその子の隣にいることはできません。
「ちょっと自分で考えてみようね。先生はほかの子の様子を見てくるから」
そう声をかけて、別の子のところへ行きます。
しばらくして戻ってきます。
「どう? できた?」
「あ、ちょっと難しかったかな」
教室には、このようなやり取りがあります。
先生も決して手を抜いているわけではありません。
必死です。
しかし、このような支援を必要とする子どもが複数人いる場合、教師一人の力だけではどうにもなりません。
これは、教師の能力や努力の問題ではなく、物理的な問題です。
一方、AIであれば、その子の状況に応じたアイデアを、何度でも提案できます。
一度で伝わらなければ、別の言い方で説明することもできます。
その子が一歩目を踏み出すまで、付き合うことができます。
もちろん、AIにすべてを作らせればよいという話ではありません。
最初の一歩だけを支えてもらい、そこをジャンプ台として、自分なりに先へ進んでいく。
0歩のまま終わるのか。
1歩目は手伝ってもらったけれど、そこから自分で何歩も先まで進めたのか。
子どもにとって、どちらの方がよいのか。
私は、後者にも十分な価値があると思っています。
「0から1は、必ず一人で生み出さなければならない」
という考え方は、場合によっては、最初の一歩を踏み出せない子どもを置き去りにしてしまいます。
AIの価値は、完成品を代わりに作ることだけではありません。
人が自分で考え始めるための足場をつくることにもあります。
Claudeにチートシートを作ってもらう
そんなことを考えながら、Claudeさんには、本番用のチートシートも作ってもらいました。
自分の主張の骨子、想定される質問への回答、使えそうなデータや資料を、一つにまとめたものです。
当日、何かあったときのお守りにしたかったので、印刷して持っていきました。
使う事は無いと思いますが置いておきますね。
abema_cheatsheet.pdf - Google ドライブ
なお、これとは別にセリフ集みたいな資料を作っていました。こっちは20ページくらい。放送見てもらうと、紙をパラパラめくっていたと思うのですが、それはチートシートとこの資料を見て、どれを出そうかと考えている感じでした。
それとは別にタブレット机の上に置いてますけど、こちらはGoogle Chatの通知見てました。Type_Tの雑談チャットが盛り上がる盛り上がる。ここでは書けませんけど、叱咤激励をリアルタイムでいただきながら放送に臨んでいました。
台本がギリギリで届く
さて、少し戻して電車の中で壁打ちをしまくっている中、局から台本が届きました。本番のかなり直前で、六本木に到着しようかというところでした。
正直、焦りました。
地下鉄の中で、
「台本、届いた!」
と、ClaudeさんとChatGPTさんの両方に投げました。
事前に想定していた流れと、少し違う。
「想定とちょっと違うぞ」
と思いながら、台本を読み、想定質問や回答を組み替えていきました。
AIと何度もやり取りを重ね、ようやく六本木に到着。
「よし。これで最終稿にしよう」
そう思った、そのときでした。
追い打ちをかけるように、このタイミングでClaudeが使用制限にかかりました。
頼れなくなりました。
マジかよ。
直前まで一緒に整理していた相手が突然いなくなり、用意していた資料にも十分頼れない状態で、本番に向かうことになりました。
これは、完全に想定外のピンチでした。
本番が始まった
番組は、出演者の方々が、
「小中学生から使わせるのは少し早いのではないか」
「AIは言葉足らずでも意図をくみ取ってくれるので、言語力が伸びなくなるのではないか」
「判断力が十分でない年齢で使わせるのは怖い」
といった率直な不安を語るところから始まりました。
これは、非常に自然な反応だと思います。
生成AIは、人間の曖昧な言葉を補いながら、それらしい答えを返してくれます。
大人ですら頼りすぎてしまうのに、それを子どもの頃から使って大丈夫なのか。
こうした疑問は、多くの人が持っているはずです。
その後、ゲストとして私と栗原教授が紹介されました。
番組の構図としては、私は学校での活用を進める立場、栗原教授は安易な利用に慎重な立場として配置されていたのだと思います。
最初に私へ振られたのは、文部科学省が示した「小学校で年間30コマ程度、情報技術について学ぶ時間を確保する」という議論についてでした。
ここで、私はまず、
「30コマすべてで生成AIを使う話ではありません」
ということを伝えました。
番組ではどうしてもAIが中心に見えますが、文部科学省が考えているのは、AIだけではなく、情報活用能力全体の充実です。
情報を適切に扱うこと。
情報の特性を理解すること。
情報技術を活用すること。
それらを、教科の学びを支える基盤として体系的に育てようという議論です。
「小学生に30時間、ChatGPTを使わせる」という話ではありません。
ここは、最初に整理しておく必要があると思いました。
「慎重であること」については一致していた
続いて、文部科学省の生成AIに関するガイドラインについて聞かれました。
私は、
「一律に禁止するわけでもなく、使いなさいと推奨するわけでもない。慎重さが重要であり、最後に判断するのは人間だと明記されている。その方向性は妥当だと思う」
という趣旨の話をしました。
実際、私自身も、子どもに無条件で生成AIを使わせることには反対です。
私が開発している子ども向けAI「ピースAI」についても、もともとの出発点は、
「子どもたちが一般向けのAIへ無防備に触れている状況は、あまりよくない」
という問題意識でした。
Google検索をすれば、AIによる概要が表示される。
スマートスピーカーにも生成AIが入る。
一般向けのサービスにも、次々とAIが組み込まれていく。
子どもたちをAIから完全に遠ざけることが難しいなら、先生が見守れる環境をつくった方がよい。
それが、ピースAIを開発した理由です。
番組では、チャットや画像生成のほか、難しい言葉を小学生向けに言い換える機能や、説明を詳しくする機能、文章を読み上げる機能などを紹介しました。
ただし、私はピースAIというサービスを売り込みに来たわけではありません。
私が伝えたかったのは、
「学校が管理できる環境をつくる必要がある」
ということでした。
栗原教授の話を聞きながら考えたこと
栗原教授は、人間は身体を使い、試行錯誤をしながら学んできた生き物であることや、分からないことに耐えられず、すぐAIに答えを求めるようになると、考える力が弱くなる可能性があることを話されました。
また、AIの変化は非常に速く、今の仕組みを学んでも数年後には変わっている可能性が高いことから、個別のAI操作よりも、人間としての基礎的な力を育てる方が重要だと指摘されました。
ここは、私も基本的に同意します。
プロンプトの書き方だけを教えても意味はありません。
特定のサービスの操作方法を覚えても、サービスはすぐ変わります。
必要なのは、言葉を使う力、情報を理解する力、自分で問いを立てる力、AIの答えを疑う力です。
栗原教授が、
「中途半端な形で導入して依存が生まれるなら、慎重にした方がよい」
と話された点も、その懸念はよく分かります。
ここで改めて思ったのは、やはり私たちの根っこはそれほど違わないということでした。
違うのは、慎重さを担保するために、
「学校ではまだ使わせない方がよい」
と考えるのか、
「学校が管理しながら教えた方がよい」
と考えるのかです。
「AIについて学ぶ」と「AIを使わせる」は別の話
議論の途中で、
「小学校ではAIを使わせない方がよいのではないか」
という話が出ました。
ここで重要なのは、
「AIを自由に使わせること」
と、
「AIについて教えること」
は別だということです。
さらに言えば、
「AIについて教えること」
「教師の監督下でAIを試すこと」
「AIを使って教科の課題を完成させること」
も、それぞれ別です。
AIが誤った答えを返す例を見せる。
同じ質問でも聞き方によって答えが変わることを確かめる。
AIの文章と人間の文章を比べる。
AIが出した情報の出典を調べる。
こうした活動は、AIに宿題を代行させることとは全く違います。
むしろ、安易にAIを信じないための教育です。
番組の中でも、
「指導要領に入れるなら、“AIを使う力”より“AIを疑う力”とした方が分かりやすい」
という話が出ました。
これは、とても大事な視点だと思います。
私はAIを信じる方法を教えたいのではありません。
疑い、確かめ、自分で判断する方法を教えたいのです。
番組の見出しをめぐる議論
その後、番組内では、画面に表示された
「AIは考える力を奪う?」
という見出しが、議論を一方向へ誘導しているのではないか、という話になりました。
「奪う?」と書けば、奪うことが前提に見える。
では、「考える力を養う?」なら中立なのか。
それも養う方向へ誘導しているのではないか。
両方書けばよいのか。
「考える力について考える」では、何も伝わらない。
そんなやり取りが続きました。
この議論は、決して無意味ではありません。
言葉の置き方によって、受け手の印象が変わる。
まさにメディアリテラシーの問題です。
そして、考えてみれば、このやり取り自体が、情報教育の教材にもなります。
同じ事実でも、どの言葉を見出しに選ぶかで印象は変わる。
画面に示された短い一文だけを見て判断してよいのか。
発信者の意図と、受け手の受け取り方は一致するのか。
本来であれば私は、その場で、
「今の議論は、そのまま教室でも扱えます」
とつなげるべきでした。
しかし、実際の私は、そうはできませんでした。
「呼ばれた意味がなくなっちゃうので」
番組の見出しや切り取り方をめぐるやり取りが続く中で、私は焦っていました。
もちろん、その議論自体も重要です。
しかし、私がこの場に呼ばれた理由は、学校現場や子どもたちの実態を伝えることだと思っていました。
放送時間は限られています。
このままでは、用意してきた子どもの実態やデータを出す時間がなくなる。
そう思い、本題に戻そうとして、
「ちょっと小学校の話に戻していいですか。呼ばれた意味がなくなっちゃうので」
というような言葉で、議論に割って入ってしまいました。
本題に戻そうとした判断そのものが、完全に間違っていたとは思いません。
しかし、その入り方はよくなかったと深く反省しています。
「私が呼ばれた意味」という言葉を使うと、直前までの議論を否定しているようにも、自分の発言時間を要求しているようにも聞こえます。
そうではなく、一見すると教育現場と離れているように見えた前段の議論を受けて、
「いやぁ、その議論は、実はそのまま教室でも展開できるんです」
と入ることができれば、それまでのやり取りを生かしながら、学校現場の話につなげられたはずです。
例えば、
「今の“奪うという見出しは誘導的か”という議論こそ、子どもたちに学ばせたい情報教育だと思います。言葉の置き方で印象が変わることを知り、情報を疑う。そのうえで、現実に子どもたちはどれくらいAIへ触れているのかというデータを紹介させてください」
と続けられたら、かなり違いました。
そこまで頭が回りませんでした。
現場の空気にのまれすぎた、私の敗北です。
翌日、草むしりをしているときに、ふと思いました。
「あれは、私に対するフリだったのではないか」
と。
気がつくのが、24時間ほど遅かったようです。
それでも伝えられたこと
その後、私は子どもたちの生成AI利用に関する調査データを紹介しました。
小学生にも生成AIが広く知られるようになり、実際に使ったことのある子どもも増えている。
家庭で生成AIに触れる子どもたちは、すでに相当数います。
学校が教えなければ、子どもたちがAIを使わなくなるわけではありません。
学校の外で、使い方を教わらないまま使うことになります。
家庭によって、保護者が丁寧に教えられる場合もあるでしょう。
有料サービスを使い、高性能なAIへアクセスできる家庭もあります。
一方で、誰からも注意点を教わらず、出てきた答えをそのまま信じてしまう子どももいます。
学校がAIに関与しなければ、この差はそのまま「AIを使う力の格差」になります。
私は番組の中で、
「子どもが家庭ですでに触れているものを、学校では何も取り扱わないという方が、罪が大きくなってきているのではないか」
という趣旨の話をしました。
少し強い言葉だったかもしれません。
しかし、学校は、すべての子どもが共通して学べる場所です。
だからこそ、先生が管理できる環境で、AIの向き合い方を学ぶことに意味があります。
話してみると、意外と立場は近かった
議論が進むにつれて、出演者の方々からも、
「AIを自由に使わせるのは不安だが、AIを疑う力は学校で教えてほしい」
「話を聞いていると、何らかの教育は必要だと思えてきた」
という反応が出てきました。
番組の冒頭では、
「小中学生には早い」
「怖い」
という意見が中心でした。
しかし、話が進むにつれて、
「使わせること」
と、
「教えること」
が分かれていきました。
ここは、番組としてとてもよかったところだと思います。
最初に決めた立場を守り続けるのではなく、話を聞きながら考えが変化していく。
AI教育を考えるうえで必要なのは、まさにその姿勢です。
栗原教授も、AIについて、
「考える力をパワーアップする面もあれば、奪う面もある」
という趣旨の話をされました。
この点も重要です。
AIは善でも悪でもありません。
使い方と設計によって、思考を支える道具にも、思考を省略する道具にもなります。
情報教育30コマは、何かを丸ごと削る話なのか
番組では、小学校の授業時間はすでにパンパンであり、情報教育の時間を増やすなら、国語や算数などを減らさなければならないのではないか、という話も出ました。
これも、現場として非常に大きな問題です。
現在の学校は、すでに内容が多すぎます。
何かを加えるなら、何かを減らす必要があります。
ただ、今回の議論は、国語を何十時間も削って、その分を生成AIの操作練習に置き換えるという話ではありません。
現在も、プログラミングや情報活用に関する内容は、国語、算数、理科、総合的な学習の時間などに分散しています。
教科の学びと情報活用が重なった実践も多くあります。
それらを体系化し、重複を整理し、情報活用能力として位置づけ直す。
その意味では、単純な「教科か情報か」という奪い合いではなく、カリキュラム全体を組み替える議論です。
私は番組内で、30コマは年間授業時数全体から見れば数%程度であり、各教科に分散している内容を少しずつ整理することで確保できる可能性があると話しました。
ただし、時間割の数字だけを動かせば済む話ではありません。
現場の教師が教えられるのか。
教材はあるのか。
端末やネットワークは安定しているのか。
困ったときに支援してくれる人はいるのか。
そこまで含めて設計しなければ、理念だけが現場へ降りてきて、教師の負担がまた一つ増えることになります。
この懸念は、番組の中でも共有されていました。
「使わないと決める力」もAI教育である
番組後半では、海外において、小学生のAI利用を制限する動きも紹介されました。
ここで出た、
「AIを使うことを禁止するのと、AIについて教えないことは別ではないか」
という指摘は、とても重要でした。
私は、AI教育とは、AIをたくさん使わせることだとは思っていません。
AIを使わない方がよい場面を知る。
自分で考えた方がよい課題を見分ける。
AIの答えをそのまま提出しない。
個人情報を入力しない。
分からないときに、すぐ答えを求めず、少し考えてみる。
必要であれば、
「今回はAIを使わない」
と決める。
それも、AIとの付き合い方を学ぶことです。
AIを使える子どもを育てるのではありません。
AIを使うかどうかを、自分で決められる子どもを育てたいのです。
伝えたかった芯の部分
放送の中で十分に伝えきれなかった部分を、ここに改めて書いておきます。
今回の議論は、
「AI推進派 対 慎重派」
という対立構造で語られがちです。
しかし、私は栗原教授と対立しているつもりはありません。
生成AIの安易な利用に反対する点も、基礎学力や思考力を守るべきだという点も、根本的には同じだと思っています。
違いがあるとすれば、私は、
「学校がAIに関与しないこと自体にも、リスクがある」
と考えている点です。
学校が教えなくても、子どもたちはAIに触れます。
しかし、そのとき、誰が使い方を教えるのでしょうか。
誰が、AIの答えを疑うことを教えるのでしょうか。
誰が、自分で考えるべきことと、AIに任せてもよいことの境界を教えるのでしょうか。
学校が関与しなければ、その役割は家庭環境や個人の経験に委ねられます。
それは、新たな格差につながる可能性があります。
私が言いたかったのは、こういうことです。
私は、子どもにAIを使わせたいわけではありません。
AIがある社会でも、自分で考え、確かめ、どこまでAIに任せるかを決められる子どもを育てたい。
そのためには、AIを遠ざけるだけではなく、安全に学べる環境を学校が設計する必要があります。
AIを使わせることが目的なのではありません。
AIを使う場面でも、使わない場面でも、自分で判断できるようになることが目的です。
コメント欄を読んで
放送後、YouTubeのコメント欄も、すべて読みました。私もコメントを入れています。
全体として最も多く支持を集めていたのは、
「基礎学力や思考力がなければ、AIは使いこなせない」
という意見でした。
これは、私が番組の中で話した「条件」の部分と、実は方向性として同じです。
私は、基礎学力を軽視してAIを使わせるべきだとは考えていません。
むしろ、基礎学力があるからこそ、AIの回答を疑い、検証し、適切に使いこなすことができます。
計算ができなければ、AIの計算ミスに気づけません。
文章を読めなければ、AIの説明が妥当か判断できません。
知識がなければ、もっともらしい誤りを見抜けません。
基礎学力は、AIによって不要になるものではありません。
AIがあるからこそ、これまで以上に重要になるものだと考えています。
一方で、基礎学力が十分に身につくまで、AIには一切触れさせないという考え方にも、私は慎重です。
基礎学力は、ある日突然完成するものではありません。
子どもたちは学び続けながら、同時にAIがある社会を生きていきます。
だからこそ、
「基礎学力か、AI活用か」
ではなく、
「基礎学力を育てながら、AIとの付き合い方も学ぶ」
という設計が必要なのだと思います。
コメントの中には、番組の進行や、見出しの付け方についての指摘もありました。
それについては、ここでは深く触れません。
ただ、実際に出演してみて分かったのは、テレビ番組には限られた時間があり、その中で視聴者に分かりやすく伝えるため、問いを短くし、立場を整理しなければならないということです。
一方で、教育の問題は、その短い問いだけでは整理できません。
「AIは考える力を奪うのか」
と聞かれれば、答えは、
「奪うこともあれば、育てることもある」
です。
「小学生にAIを使わせるべきか」
と聞かれれば、
「何歳かだけで決めるのではなく、何のために、どのような環境で、どこまで使うのかによる」
という答えになります。
こうした条件を丁寧に言葉にしていくことが、現場にいる私の役割なのだと思います。
今回、テレビ番組という限られた時間の中では、十分に話しきれなかったことがたくさんあります。
基礎学力とAIの関係。
子どもの発達段階に応じた使い方。
学校がどこまで責任を持つべきなのか。
教師の役割はどのように変わるのか。
AIを使えない子どもや、使わせてもらえない子どもが取り残される可能性。
AIを使った学びを、どのように評価していくのか。
そして、子どもたちにとって本当に必要な「考える力」とは何なのか。
これらについては、また改めて書こうと思います。
いずれにしても、多くの方に見ていただけたこの機会をくださった番組スタッフの皆さま、私を控え選手として置いておこうと判断してくださった紹介者の方に深く御礼申し上げます。
↓んで、どうして私はサムネにいないの?笑
超余談
当日のテレビ朝日はMステの特番の日だったので、私の楽屋が置かれた階に、SixTONESとか、Mrs. GREEN APPLEとか、SEKAI NO OWARIとか、中森明菜さんとか、多くの著名な方の楽屋が近くになっており、超緊張でした。トイレ行くだけでビクビクです。

おそらくこの写真は2度と撮ることはないでしょう。
あと、終わった後でごはん食べようと思って近くのお寿司屋さん探したら、予算が2万とか表示されてビビった。六本木やべえ。